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躁シリーズ第2弾:表現を巡る表現(小説3作、落語)

表現者が、表現のテーマに「表現者」や「表現物」を選んだ時、その作品に作者自身の表現への考え(「何のために表現するのか」「表現活動を通じて何を伝えたいのか」)が色濃く反映されることは、自然だろう(わかりやすい例として、宮崎駿風立ちぬ』とか、アニメ『SHIROBAKO』のような作品のことです)。
最近読んだ小説3作(小林恭二『小説伝』、中井紀夫『山の上の交響楽』、ポール・オースター『幻影の書』)と、鑑賞した落語1公演(『志の輔らくご』「中村仲蔵」)が、いずれも圧巻だったうえ、たまたま上記のように「作中作」を扱ったモノだったので、個人的なメモ。

 小林恭二『小説伝』:小説を巡る小説
【あらすじ】
孤独な老人の飢餓死によって発見された500巻の壮大な長篇小説は、人類に何をもたらしたか?この小説をめぐって、狂騒するマスコミ、昏睡する読者、跳梁する犯罪集団―
想像力の盲点を突いた過激な表題作に、無為の日常からの脱出を幻想的寓意で描いた「迷宮生活」を併せて収録。(文庫版あらすじより)

 芥川賞候補作品らしい。
 登場人物たちが、前代未聞の500巻の小説を読み進めるにあたって巻き起こすドタバタ劇とともに、小説本編そのものの内容が明かされていく。「誰が小説を読み通せるのか?」と「この小説の結末はどうなるのか?」という2つの謎が同時進行する、ミステリーのようなSFのような、不思議な作品だった。そもそも、東大文学部美学芸術学出身だという小林恭二氏は、極めて頭がキレる、つまり理知的な方面へ想像力がドライブする人らしく、今作についても、「芥川賞」というイメージに求める文学的退廃的感情的感覚的詩的甘美さは、殆ど無い。「ナンセンスな論文」って呼んだ方がしっくり来る読後感だった(ちなみに、今作をお勧めしてくれた人は、「私小説の伝統が分厚い日本文学の中にあって、理知と奇想を駆使した珍しいタイプの書き手だと思います」と言っていた)。

『小説伝』のなかで登場する作中作(「野々村氏の小説」)のテーマは、下記だ。

 研究者たちはここであらためて、おそらくは野々村氏の小説のテーマであるところの『一人の人間に一個の人生しか与えられぬという不幸』について思いをめぐらした。
 言うまでもなく、人類にとって最大の不幸とは「一人の人間に一個の人生しか与えられないこと」である。他の動物と異なって奇形と思えるほど想像力の発達した人間にとって、それは不断の苦痛を生み出す自意識にささった鋭い刺である。なんとなれば、その人間に与えられたたった一個の人生が不幸であった場合はもとよりのこと、客観的には何不自由なく人生を送ったものでさえ、自分の想像力に適うだけの人生をおくりえよう筈もなく、想像力との対決という点においては、みな等しく敗者とならざるをえない。(この一点において人類ははからずも絶対的平等を獲得しているとも言えるのだが。)
 人類の歴史はある意味で、このたった一個の人生と異様なまでの想像力とのせめぎあい、という不幸からいかに逃れるかという家庭であったと言っても過言ではない。

 およそ小説とは思えない論理的な文章だが、それはさておき、人生が一度きりでしかないこと(「あの時ああしていればよかった……」)、自分が自分でしかないこと(「なぜ私は石原さとみじゃないんだろう……」)といった想像力から来る苦しみを癒すために束の間、他人の人生を経験するのが、「野々村氏の小説」の目的らしい。これはそのまま、小林恭二の小説観に当てはまるだろう。人生がたった一度しか無いからこそ、人は他人の人生について小説を描いたり、読んだりするのだ。小林恭二は、もしかしたら、個々の小説をこしらえることより、「小説は何のためにあるのか」というメタ的な問いの方に関心があったのかもしれない。だとしたら、その答えは『小説伝』によって素晴らしい形で達成されており、近年あまり小説を書かれていなかったり、HPに「自分でも自分がなんだかよくわからない作家」と自称されているのは、この辺りに秘密があるのかもしれない。

 

中井紀夫『山の上の交響楽』:音楽を巡る小説
【あらすじ】
山頂の奏楽堂で演奏に一万年もかかる交響楽を演奏し続ける楽団は、演奏開始三百年のいま最大の難所〈八百人楽章〉を迎えていた。前代未聞の楽器製作や大量の写譜に大わらわの楽団員の姿を描き’88年星雲賞に輝いた表題作ほか、書き下ろし中篇「電線世界」など奇想天外で優しい物語6篇収録。(文庫版あらすじより)

350年前に生まれた天才が作った、演奏し終わるのに一万年かかる音楽を、町がかりで演奏し続ける人たちという、突拍子もない(超面白い)設定のSFだが、今作もまた、ナンセンスな思考実験を通じて「人間はなぜ表現するのか」を哲学する。主人公は、楽団を支える事務局の職員。下記は、800人がかりで演奏しないといけない〈八百人楽章〉を前に、楽団のエースのバイオリニストが突然不安に陥ってしまったため、危惧した主人公がバイオリニストと会話をする場面だ。不安の原因は、「山頂交響楽は、いったい誰が聞いているのか?最初から最後まで通して聴ける人はいないのに、何のために演奏しているのか?」という問いに、囚われてしまったかららしい。

「たいていの人はその疑問を棚上げにしちゃってる」
「ぼくの考えでは、だれが聴いているのかが問題なのではないんだと思う。だれが聴いているのかと考えてしまうことが問題なんだ。だから考え出すと泥沼にはまる」
「よくわからないわ」
「ぼくもよくわからない」
「演奏しつづける以外に答えはないのね、きっと」

この場面以外でも、主人公は「なぜ山頂交響楽を演奏するのか」に対する答えを先送りにしてきた(「もっとくだけた言い方もできる。演奏しはじめちゃったものはしょうがないってやつさ。ぼくはこっちの方が好きだね」)。このように、演奏そのものには立ち会わない主人公に転機が訪れたのは、まさに〈八百人楽章〉の場面、人数合わせで打楽器奏者としての演奏に携わったクライマックスだ。

石琴が一斉に演奏に加わった。
音村は石琴の前を無我夢中で走り回って演奏した。
……この瞬間が、全宇宙史の中で、ただの一度しかない瞬間であることが、胸にしみわたってきた。
そのように言葉で思ったわけではない。この曲をだれが聴いているのかという疑問が解消したわけでもない。ただ、この瞬間の一回性を、まさにその瞬間に感じたのである。いや、感じたというのも正しくない。その瞬間がその瞬間である。その瞬間以外のなにものでもない。そういう瞬間があったのである。

小林恭二が、人生の一回性を不幸とみなしていたのに対し、中井紀夫は、「胸にしみわた」るものととして捉えている。表現は、表現者が自分の生の一回性を言祝ぐ手段として行うものなのだ。誰かに届くかという問いは、オマケに過ぎない。
本人あとがきによれば、中井紀夫は一時、歌舞伎町でピアノを弾く仕事をしながら、小説を書いていたらしい。酒場という、誰かに聴いてくれていると確証のつかない場所でピアノを弾いてきた経験が、今作で提示される答えに、ヒントを与えたのではないだろか。

ここにあるひとつの減少がある。その現象にふたつの呼び方がある。ひとつの呼び方で呼ぶと、それは「人間が生きている」という現象である。べつの呼び方をすると「物語を作りだし続ける」という現象である。そういう現象がこの世に存在しつづけているのだ。(「あとがき」より)

 

ポール・オースター『幻影の書』:映画を巡る小説
【あらすじ】
その男は死んでいたはずだった──。何十年も前、忽然と映画界から姿を消した監督にして俳優のへクター・マン。その妻からの手紙に「私」はとまどう。自身の妻子を飛行機事故で喪い、絶望の淵にあった「私」を救った無声映画こそが彼の作品だったのだから……。へクターは果たして生きているのか。そして、彼が消し去ろうとしている作品とは。深い感動を呼ぶ、著者の新たなる代表作。(文庫版あらすじより)

妻子を亡くした男が再生に向かうドラマと、1920年代に12作品を残して突然消えた架空の俳優の顛末が同時進行で語られる、深淵な小説。作中、ある事件が起きる前は、俳優にとって映画作りはビジネスであり未来を渇望された天職だった。が、事件後は、ひたすら個人的な贖罪の手段になる。妻子を失った喪失感に打ちのめされていた主人公は、そんな俳優の研究にのめりこむことで、人生から徐々に立ち直っていく。「人生の一回性」について考える暇もなく、当事者として深く傷ついた彼らにとり、表現することは、人生をどうにか乗り越えるための祈りだ。それにしても、よくもこんなリアルに、傷ついた人間の内面を描けるものか。下記は、俳優に取材するために、主人公が飛行機に乗り、離陸を迎えた場面。

あのときヘレンと子供たちと一緒に死ねていたら、と私はずっと思ってきたものだが、それでも飛行機が墜落する直前に彼らが味わった気持ちをじっくり思い描いてみたことは一度もなかった。そしていま、目を閉じると、息子たちの悲鳴が聞こえてきた。ヘレンが二人を抱きかかえて、あなたたちを愛しているわと言っている姿が見えた。いまにも死のうとしている周りの一四八人の悲鳴が響きわたるなか、いつまでもあなたたちを愛しているわと彼女はささやいていた。息子たちを抱えたヘレンの姿が見えたとき、私の防御は崩れ去り、私はしくしく泣きだした。
 両手に顔をうずめて、すごく長いあいだ、塩辛い、嫌な臭いを発している自分の掌に涙を流し続けていた。顔を上げることも、目を開けて泣きやむこともできなかった。

 

■『恒例 志の輔らくご』「中村仲蔵」:歌舞伎を巡る落語
【あらすじ】
相中から名題になった中村仲蔵についた役は、忠臣蔵五段目の斧定九郎の一役。山崎街道で夜具縞のどてらにたっつけをはいて草鞋(わらじ)姿、山岡頭巾を被って与市兵衛の追っかけて出て来るという、どう見ても山賊の出で立ちだ。元来、名題のやる役どころではない。そこは芸熱心な仲蔵、かねてから五万三千石の家老職、斧九太夫のせがれの定九郎の着付け、演じ方に疑問を持っていた。なんとか工夫して新しい定九郎にしたいと考えるが、いい知恵が浮かんでこない。苦しい時の何とかやらで、柳島の妙見様へ願掛けに日参する。(中村仲蔵(落語散歩)より一部抜粋)

素敵な機会を得て、『志の輔らくご』を見てきた。
前半、たっぷり1時間かけて「仮名手本忠臣蔵」のレクチャーがあり、後半いよいよ落語。逆境に苦しみつつも、芝居への熱意を胸に「いまだ誰もやったことがない新しい定九郎」作りに奮闘する仲蔵へ焦点を当てたドラマは、さながら志の輔師匠の人生そのものだ。1時間レクチャーという狂気も、毎年この演目を演じられる思いの入れ様も、愛おしいものに感じた。